欲望と自己認識

睡眠から覚めるときに、「ここにいる」っていう感じ、存在感がふわぁ〜っと現れます。

この何者でもない「ただ在る」っていう純粋な存在感は、誰でも、感じているのはまったく同じものです。

その後、敏感な方なら、きゅうっと胸の中に塊みたいなものが発生するのを感じるかもしれません。
「私」が体の中にいるような感覚、分離感ですね。

で、これには足場がなくて気持ちが悪いので、これを守るためにいろんなものをくっつけ始めます。
この分離した私(自我)に、念(信じること)によって、いろんな意味、言葉を纏い始めます。
綿あめを作る機械みたいなイメージなんですが、クルクル回っていて、念にはネバネバとくっつける作用がある。
信じるという機能がなければ、言葉ってただの符号、何の意味もないし、感情という強烈な臨場感は発生しません。
この相乗作用で、「分離した私」感に膜のようなものができます。
吐き出して起きた現象から得た印象を、取り入れ、また吐き出し・・・。
思い込みによって、この膜の中に溜め込まれたエネルギーが、絶え間ない行為を促してくることを「カルマ」と言っているように思います。

だから、悟りとか解体というのは、新たに何かを信じることではなくて、何を信じてしまったのかに気づいていくこと。
貼り付けたクルクルの逆回転、信じ込みの膜からの解放です。

この「個人的な私」が発生するシステムそのものが、誰がやってるわけでもないんですよね。
全体の機能のひとつであり、ただただ今、思いと感覚が湧いている。
どこからどこまでが思い、観念かといったら、全部なので、行けるとこまで調べてみたら驚愕ですね。
これが、ものすごい臨場感のある娯楽、リーラ(神の遊戯)と言われているのが腑に落ちます。

個人ていうのは、そもそもどこにもいない。
霞のように気配はあっても、つかめるような実体はない。
今、表れたり、消えたりしていて、ずっと続いているわけではないんです。

「SHIHO」はこういう人ですというのはいくらでも言えるけれど、それはただの言葉で、「SHIHO」っていう実体はいたことがないんです。
私はSHIHOです、この身体です、というのは観念です。
そういう物語が、今、とある体と一緒に表れる。
見る人の数だけ、「SHIHO」というイメージ、亡霊が湧くとも言えます。
人間はそういう想像の交換をずっとやっていて、無いものがどっしりと有るように感じられ、恐怖や執着を引き起こします。
これは「悟り」という収穫物を追うことに関しても同じです。

自我を消そう消そうとするのは、元々無いものに、有るという前提の命を吹き込み、余計に存続させることになります。
ただ、きゅうっという収縮の感覚や、不快な思考が湧いている時に、それを感じてるのは誰?そう言っているのは誰?と、体の中や心の中のどこにその私がいるかを探してみたら、消えてしまうという体験が起こるかもしれません。
自我は元々存在しないので、探されると消えてしまうという性質があります。
神秘的な場所に行く必要はありません。
生活の真っ只中の場所で大丈夫。

「私」と「私のもの」が消えても、残るもの。
ずっとあったもの。
境界線のない、あらゆるものを突き抜けて浸透しているもの。

自我の求めるエネルギーが削がれてくると、足りないという線も消えます。
特別で刺激的じゃないけど限りのないものが、快楽ではない、なんの努力もいらない、ハートを充満させる喜びが顔をのぞかせます。

洗濯物が揺れる様子、ジャンクフード店の雑踏、植物がただそこにあること。
世界を震わせた名曲も、木立の葉擦れも、救急車のサイレンも、誰でもない神の音。
私という偽の行為者が隠していた、すべてのものの背景にあるもの。

いわゆる至福と言われているのは、カメラのレンズの焦点が全開に開かれているような感じです。

心が完全に内側を向いて消えるのは稀だと言います。
それが起きれば、サマーディなわけですが、そういう文化的な背景がないところでそうなると、日常生活との間ですごく困惑する時期を経験する場合が多いと思います。
方向や目的、時間の感覚、それまで持っていた多くの興味が脱落します。
それはこれだし、ここなんだけれど、音階は全然違うので、言葉には決してできないし、話しても周りの人には通じません。
そのとき、自分が執着している特別な情愛に、強烈に引き戻されます。
自我は戻ってきて、ああ、どうしよう、どうやって生きていけばいいんだろうと途方に暮れ、暴れます。
そういうプロセスが起きることが多いと思います。

でも、目覚めの一つの側面として、自分とは何かという自己認識の位置が、出たり、下がったり、移動するのがよく見えるんですね。
出ていけば身体と同一化し、下がってハートに収まれば無形の意識と同一化します。
行ったり来たりという時期が続きます。
同一化する「私」が残っている段階で、コントロールできるわけではないので、「私」には何が起きているのかわからず混乱があります。
十牛図には、その様子が見事に描かれています。
それでも覆いは少なくなっているので、裸の感受性が剥き出しで、喜びも痛みも強烈です。
その痛みと強烈さはまた恩寵でもあり、それが教えてくれるものがあります。

身体との同一化に任せて外周に行けば行くほど、世界と自分はバラバラで、足りない感覚に追い立てられます。
ハートに戻ると、充足と安らぎ、深遠な静寂があり、永遠の今の中で、目の前の風景と感覚が起きては消えて、変わっていくのをあるがままに眺めているような感覚になります。
だから、本当は欲望というのは、何かが欲しいわけではなくて、この正しい位置を求めているんだなと思いますね。
人間は、欲しがる心が止まる、センターに戻してくれるものに触れたとき、感動しているんだと思います。
あなたが求めているのは、自己なんだよ、というのは、そういうことだと。

SHIHOというキャラクターの個性というのは、びっくりするぐらい残ります。
でもそれは、庭の植物と同じレベルで、それが私のものだという感覚、「所有」と「同一化」の感覚がなくなってきます。
その花の種を蒔けば、その花が咲くように、種には、好みや美点や欠点というプログラムがそもそもあり、常にこの瞬間の、未知の縁というインプットにより反応を返し、アウトプットという表現が起きます。
そういったすべての動力はひとつの命です。
消えるのは、キャラクターの上に覆い被さっていた、理想像を重ねて操作しようとしていた者ですね。

身体が自分だという風にしか見えないと、いろんな身体の所作や行動、着ている服とかに着目してしまうでしょうが、それとはまったく関係ないですね。
「行為」って、行動のことじゃないです。

自我っていうのは、「私」とは肉体であると想像している思いの集まり、心です。
身体だけではなく、この精神的な傾向、心自体を自分だとも思っています。
これそのものが誤解ですから、誤解を元に誤解を重ねます。
仮想で足場がないので、生き残りをかけ、居場所を探していたりして、そもそも不安です。
だからこれが要求してくるものを信じてしまうと、本当にキリがない。
「自信」を持つということの矛盾ですよね。

欲望というものの根をよく見てみると、願望を成就したいというよりも、この得体の知れない誤解から解き放たれたいんだなぁと気づきます。

身体には活動が起こります。
でも、私はただ在るだけ。
アブラハムより以前に。

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