本格的に真理の探求が始まったのは20代の頃でした。
家庭環境が壮絶で、若くから一人で病身の親を養う立場にもなり、私は八方塞がりでした。
詳しくは書きませんが、かなりの修羅場に次ぐ修羅場。
困っている人がいれば助けたい。
だけど自分が幸せが何かわからないのに、これでは共倒れだと思いました。
みんな幸せを望んでるのに、こんなに周りには苦しみがある。
誰かを助けたいなら、自分が幸せを知らなきゃいけないんだって。
そしたらある日、誰に願うでもなく自然と、
「いつ死んでもいいから、どんな目に遭ってもいいから、本当のことを教えてください」
という願いが、心の底からわきました。
すると、「お釈迦様」っていうインスピレーションが頭に降ってきたんです。
同時に、私たちがよく知っている、お葬式でお経を読むといった儀式が、釈迦が伝えたことではないということも、言語ではない情報でパッケージのように降ってきました。
じゃあお釈迦様は何を伝えていたんだろう?となり、調べてみたら初期仏教が釈迦の教えをそのまま伝えているということでヴィパッサナー瞑想に出会い、かれこれ20年が経ちました。
私は僧侶でも何かの信徒というわけでもありませんが、いつか真理の勉強に没頭できる日が来ればいいなと、何をしていても瞑想だと思いながら、仕事をしたり、普通に生活していました。
心の中では常にそれだけが一番の興味という変わり者です。
そうしたら、思っていたよりもずっと早く、まさに真理を勉強するだけでいいよという状況がやってきたんですね。
そのうち、禅などでいう、心身脱落が起きました。
10年ぐらい前のことです。
肉体意識(自分のことを身体と記憶だと思っている自我)がごそっと落ちてしまったのです。
ただただ心がしーんとして、自分だと思っていたものは存在したこともなかったし、何かをしたこともないということが鮮明です。
過去や未来、自分とはこういう人で、こういう人生を経てきたと言っているのは、今現れている風景や感覚とはまったく関係のない、そのときわき起こっている思考でしかありません。
想像以外、何も起きていないのです。
何にもないのに、何でもある。
中心に誰もいない。
自我というフィルターが消えると、満ち足りた愛、区切りのない生命がありありとして、理由もなく幸せです。
理由を必要としないので、尽きることもありません。
奥行きも歴史もありません。
この瞬間だけ。
ですが、快適な感情だけではなく、どのような感情や感覚も起きますし、一般的に不幸といわれる現象も相変わらず起きます。
むしろ余計に強烈に感じます。
しかし、それを不幸な出来事と解釈して膨らます心の声は、事実ではないことも明らかです。
私の場合は、そう順当にはいかず、その後思いっきり自我が帰ってきて、堕落も堕落、悶絶しました。
探求者だからこそ、はまる沼。
周りに、シフトが起きて視界が変わったことは理解されませんし、自分自身もまだ統合されていなくて、それから大いに混乱と葛藤がありました。
きっと多くの探究者さんがはまってしまうんじゃないかと思います。
それはまた別の機会に書いてみたいと思います。
「悟り」というのはこういうものだというイメージがあると思うのですが、それは人の数だけある妄想だと思います。
その旅の行程や体験は、一人として同じものはないでしょう。
それはただ、知りようのない、誰のものでもない、一度も移動したことのない、あるがままのこれだけを残します。
そうして、暮らしも、行動も続きます。
個人の行為などどこにもなく、すべてがそれに生かされています。
真理の探求は、自己探求に他なりません。
本当の自分、真我を探しているんですよね。
ところがその動機は、幸せになりたい、苦から逃げたい、という感じで、本当のことが知りたいわけではないことが多いんじゃないかと思うんですね。
でも幸せは、なるものではなく、自然な状態に戻ること。
余計なものが落ちることです。
生命がこの瞬間、あなたという楽器を曇りなく鳴らせるように。

