瞑想って何でしょうね?
多分、話している人の数だけ「瞑想」ってあるんですよね。
言葉っていうのは、その人がその単語にどんな意味を付けて話しているかもわからないし、聞いた人は聞いた人でその人なりのイメージが起こるので、全然「伝達」できない道具なんですよね。
肉体の感受性や記憶を作ってきた経験の背景、同じ畑はひとつもないですから、「言葉」という種がそこに入ってきたとき、同じ解釈や反応にはならないですよね。
だから、長時間一緒にいて、話せばわかる!と思っている人間のコミュニケーションというのは、前提からすれ違ってたりすると思うんですね。
「私はこの人のことをまったく知らない」と思って家族とかを見ると、初めてその人と出会えるのかもしれませんね。
ただ、「はじめに言葉ありき」というとおり、言葉って空間を開くんだなぁと思います。
さて、だとしても「瞑想」って何でしょうか?
私は瞑想のおかげですごく助かった感覚はあるんですが、説明しようとすると、それってこういうものって、とても断定できません。
でも瞑想を、目を瞑って長い時間座ることや、インドの奥地でグルから伝授されるもののように考えていると、すごくもったいないと思うんですね。
型は最初は心のスイッチになって役立つと思いますが、それは24時間365日、どんな体の動きをしていても続いていくことで、むしろ自覚を超えたところでじわじわと作用してくると思います。
瞑想というのは、どこに心の基盤を置くか、
どれだけ深く内に潜るか、
ただまっすぐ見ようとするかという、
自我側の決意、意志と言えるかもしれません。
何かを作ることに没頭したり、音楽の演奏や絵を描いたりすること、体を動かすことで無心になるような、無思考になれる作業も瞑想になりますね。
そういうことがリフレッシュになるのは、時間のない、無我、永遠に触れているからです。
ちなみに、私が一番おすすめしたい瞑想法は、バイロン・ケイティさんが紹介されている「ザ・ワーク」。
本やYouTubeなどでもご覧になれますので、ご興味があればぜひ。
思考との一体化ってどういうことか、それがないとき、たった今、あなたは何者かが体感できると思います。
自我というのは、すなわち「心」ともいえますが、これは言葉でできています。
プログラミングのコードみたいなものですね。
何ものでもない存在に、「私は誰それ(名前)」「私は男性」「私は女性」「私は日本人」「私は親」「私は瞑想をする人」等々、いろんな条件付けをくっ付けていくことで、無限の存在がきゅうっと限定されたキャラクターを体験できます。
この、「私」とは個人的な肉体だ、と思い込んでいる機構が自我です。
自我は言葉の回転ですから、沈黙が大嫌いです。
なので、瞑想で静けさの練習をすると、最初はものすごくストレスに感じます。
この「心」という幻想がくるくると休みなく回っていると、心はすごくリアルにあるように感じ、世界が映画のように投影されます。
走馬灯というやつですね。
瞑想っていうのは、その映画を最前列のかぶりつきで観ていた人が、そーっと、後ろの方の座席に下がっていくような感じ。
そうすると、あれ?これ映画なんや、とか、
え?ここ映画館?、とか、
あれ?私の中に映画館と映画観てるたくさんの人が現れてるんですけど、とか、
見えてくるわけですね。
メタ認知という智慧が現れてきます。
私はこの感覚がですね、すごいガンダムっぽいなと感じてまして。
世界の中を彷徨いながら正義感に燃えて戦っていたひ弱なアムロがですね、
もう俺の力じゃ無理や・・・、倒しても倒しても敵来るし、誰も俺のいうこと聞いてくれへんし、体もたへんやん。
カッコ悪いけど・・・、俺・・・、俺・・・、もうビリでええわ!!
いうてですね、一番後ろの席に座ったら、そこガンダムの中です。
無敵です。
だって、全部自分の中だったから。
それは、ハート、センターに戻るっていう感じです。
ガンダム包み込んでくれます。
ヴェーダなどの聖典では、アムロのことを霊魂やアートマン、
アムロがガンダム(真我)と完全に一体となる、無条件の愛に溶け去ることをサマーディと表現されていると思います。
この、ぐるん、と内と外がひっくり返ることを、見性とか、有身見(うしんけん)の消滅とか、トゥリーヤ(第四の状態)などと言っていると思います。
私が世界の中にいたのではなくて、世界が私の中にあった。
体の中に私がいたのではなくて、私の中に体が現れていた。
一つの肉体が「私」と思い込んでいた結び目、同一化が切れるんですね。
最初からこのひとつの命だけがあって、誰もが常に家の中なのですが、そのときようやく、ホームを見つけた安堵と、自分と思っていた小さな檻から解き放たれた途方もない解放感が起きます。
肉体の死への恐怖心は完全に無くなります。
自己の本性は肉体ではないことは明らかだし、それは毎晩眠るのとなんら変わりない、解放と安らぎそのものだからです。
心(自我)がふっと消えたとき、初めて、今まで何があったのかがわかるんですね。
探している人そのものが、そのくるくるの一部として一体化してるので、くるくるの外は見つけられないんです。
ですからその「落ちる」というのが一度でも起こらないと、やっぱり真理の本に書いてあることは理解し難いと思います。
ところがですね、自我は何度も帰ってくるわけですよ。
アムロは、何らかの思考にくっついて、またふらふら〜っと家出しよります。
この、アムロが出たり戻ってきたりする、自我の抵抗期間がすごくしんどいんですね。
アムロの思春期ですよね。
家出の原因は、その人が執着しているか、恐れているストーリー。
「特別」な家族やアイデンティティ、コンプレックスが刺激になってるなーと思います。
そのあたりのことは、また改めて。

