目の前の景色が変わっているだけ

ニサルガダッタ・マハラジの言葉に、
「まず、自分の家に秩序をもたらすことだ。
そうすれば、あなたはあなたの仕事を終えたことを知るだろう。」
というものがあります。

刻々と風景は変わりますが、ここ、という足元からは逃げられないんですよね。
どれだけの距離を移動しても、それも、ここ。
実は移動なんて1ミリも起きていません。

その「 ここ (ハート) 」というのは、形も年齢もない「わたし」という存在。

そこから、溜め込んだ印象と、信じ込んだ信念体型が投影されます。
それは幻想だからこそ、容赦なく何でも映ります。
そして映った風景に、意識的か、無意識的に意味を付け、体験します。
人が厳然とあると思っている世界は、その人だけの幻想以外の何ものでもないと同時に、それがこれほどリアルに現れる仕組みそのものが神ですよね。

その「ここ」を山ほどの信念で覆って曇らせるか、自分のどんな信念を見ているのかに気づき、荷物を降ろしていくか。
自分以外には誰も、その役は担ってくれません。
無形で無限の自分自身と遠く離れるのが無知であり、それをより深く知り、親しくなるのが知恵。

誰もが求めているものは、「ここ」にあるんです。

覆いが晴れ、ただ存在の生命感が残ると、満開の花も、枯れていく様も同じように美しく見えたりします。
怒りも悲しみも、喜びも楽しさも、愛の中。

意味も価値もない、ただ暮らしがある。
それって、途方もない自由です。

そして、やっぱり嘘がつき続けられなくなるんですよね。
自分ではないものを追いかけて、不足の物語と一体化することが、いかに苦しみかということを深く感じるから。

とはいえ、自我の引力ってすごいですし、人間の社会はストーリーで埋め尽くされているから、何度も何度も自我が語る物語に引っ張られます。

その度に、何も起きてないことを思い出して、握っている手のひらを開いて、素直にハートに戻ろうと思います。

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